私たちが学校で、疑うこともなく暗記していた「歴史の正解」。 それが、ある日突然、書き換わってしまうことがあります。
例えば、鎌倉幕府の成立。 「いい国(1192)作ろう鎌倉幕府」とリズムよく覚えたはずなのに、今の教科書では「いい箱(1185)」が主流になっているのだとか。 かつてのテストで1192年と書かなければバツをつけられた日々は、一体何だったのでしょうか。
さらに驚くのは、あの有名な「聖徳太子」の肖像画です。 髭をたくわえ、笏(しゃく)を手にしたあの姿。実は、後世に描かれたもので、本人である確証はないという説が広まっています。 それどころか、「聖徳太子という一人の人物」が実在したかどうかさえ、議論の対象になっているというのです。
(……いや、誰だかよく分からない人を一生懸命覚えさせられていたのかと思うと、なんだか可笑しくなってきませんか)
でも、この「正解が崩れる瞬間」こそが、本当の教育の始まりなのかもしれません。
私たちは、教科書に載っていることを「不動の真実」だと思ってしまいがちです。 けれど、新しい発見があれば、昨日の正解は今日のデタラメになる。 私たちが「前提」として信じているものは、実はそれほど強固なものではないのです。
ブルーハーツの歌に、こんな歌詞があります。 「見てきた物や聞いた事 今まで覚えた全部 デタラメだったら面白い」
以前にも少し触れましたが、マネーボールという物語を読んだときの衝撃もそうでした。信じていた地面がガラガラと崩れ落ちる感覚は、どこかゾクゾクするような解放感を連れてきます。「正解」という窮屈な箱から、そっと外に連れ出してくれるような、そんな自由さです。
もし、教育の役割が「正しい知識を詰め込むこと」だけにあるのなら、教科書が書き換わるたびに、私たちの学びは無価値になってしまいます。 でも、本当の教育とは、「今正しいとされていること」さえも、やさしく疑い続ける力を養うことではないでしょうか。
「これ、ほんとにそうだっけ?」と。
専門家が語る「正解」や、時代ごとに変わる「セオリー」。 それらを鵜呑みにせず、自分のセンサーで確かめてみる。 たとえ教科書が「これが真実だ」と言っても、心の中に「本当かな?」という余白を残しておく。
一人の完璧な専門家が決めた「正解」をなぞる世界より、 みんなが「昨日までの正解は、実はデタラメだったかも」と笑いながら、 新しい発見を楽しめる場所の方が、 きっと、隣の人のお腹を想像する余裕も生まれるはず。
次に、何か「動かせない真実」に出会ったときは、 いったんうなずく前に、 「この前提、いつか変わるかも」と 自分の中を一周してから、返事をしようと思います。


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