ひでせろのプロフィール、自己紹介

 皆様、初めまして。ひでせろ です。

こちらのブログにお立ち寄り頂きありがとうございます。

まず、こちらのプロフィールでは、

やる気のなかった学生時代から自分のやりたいことに真剣に向き合って海外駐在員になり、

最終的に自分のビジネスで稼ごうと決意するまでの私のストーリーを語っています。

振り返ればマインド=心構えを変えることでステージが変わり、環境も変わってきました。

今、俯瞰してみるとうまくいかない時、挑戦していない時に自分を制限していたのは

自分だったと思います。

未熟だった自分を乗り越え、少しでもいい状態に持っていけたのは良い出会い、良い情報を得たことが最大の要因だったと今確信しています。

ライフハックは良い情報に触れることで可能です。

ブログで情報発信を決意したのも、少しでも皆様に有益で前向きに行動できる情報を提供したいという思いからです。

少し長いですが、ここに至るまでの経緯をストーリーで語ります。

希望も夢も無かった怠惰な学生からのスタート

自分でもよくわからないのですが高校3年間は皆勤でした。

学校行く他にやることが無かったからです。

今思えば、夢やゴールを持つということが無かったことが根源的な原因です。

暇よりはマシで、ある程度面白いことが見込めるという考えで毎日欠かさず学校に通っていたのです。

高校生活が終わって、もちろん思いましたよ。

何か全力で打ち込めるものなかったのか?と

別に彼女を作るわけでもなく、何かの部活に燃えるわけでもなく、

ハーバード大学のような海外大学を目指して本気で取り組んだ、わけでもない。

一体、この3年間何だったんだろう、と。

友達には恵まれたので面白かったけど、不完全燃焼感がメチャクチャありました。

良くも悪くもあまり危機感を感じない性格のため、普通に高3の終わりになり受験をします。

そして大学を適度に4つほど受け、スムーズに浪人します。

自分への可能性を信じて行動していないんです。

そして浪人生活では国公立志望だったのですが1年が過ぎ、関西の普通の私大に何とか受かります。

受かったときはメチャクチャ嬉しかったですが、はっきり言って今、受験しても受かる気がします。

そして大学生になります。

もちろん際立った野望は無かったのですが、一年の浪人生活の反動で、

「徹底的に楽しんでやろう」と。決意していました。

今考えれば、このマインド、心構えのおかげで楽しく過ごせました。少し成長です。

海外留学は何となくかっこいいな、ぐらいの思いはありましたが、どうしていいかわからないままでした。

ワーキングホリデー制度も知らないままでした。

ただ大学に行っては面白さを求めて楽しく過ごし、よくある大学生活を送って終わります。

文字通り暇を持て余して徹底的に遊びを取り入れて過ごしたのが良い思い出です。

その時の自分に今言いたいのは、

「自分では達成方法も考えられないような、でかいゴールを目指したら?」

というアドバイスしかありません。

そして、そのバカンスのような、そうでないような大学4年間を過ごし、無事卒業します。

大学入学時の決意のおかげで、どこを切り取っても面白い体験の宝庫でしたが、

もっと先の大きなゴールがありませんでした。

が、運よく就職活動で得た大手の食品会社に就職。

不思議な話ですが、4年間の自由な生活の後、かなり自分の人生に対する自信を取り戻していました。

社会人として働くことになります。

社会人になって、このままでいいのか?と違和感を覚える。

大学を卒業して食品会社に営業として働くことで社会人生活をスタートした私。

もちろん、希望にあふれていました。

安定した良い会社であったのですが、その社会人生活2年目のある日、

突然自分への疑問がわき起こります。

その会社の上司や、そのまた上司を見て、

自分の将来が同じであれば死んだ方がマシだな(言葉が汚くて申し訳ありません。25歳の時の正直な心の声です。)

と思ったことがきっかけで自分の人生を見直さなければならない、という思いに駆られます。

大事なことなので繰り返しますが

”このままこの会社で安泰に過ごして人生が終わるなら死んだ方がマシ”

と思うに至りました。社会人2年目の時でした。

自分で応募して採用されて、働くことを決めたので全て自分の責任です。

そこから、

なぜ嫌なのか。

では、何がしたいのか。

もし、叶えば心から嬉しいことは何か。

人生で達成したいことは何か。

と自問自答する日々が始まり、東京の本屋で自分探しを開始。

色々な自己啓発本を読む中で

自分のやりたいことを全て書き出してみなさい、ということが本田健さんの”ユダヤ人大富豪の教え”という本に書いてあった

ので書き出してみました。

そこで以下の自分がやりたいという3つの選択肢がでてきました。

書きだしてみると、どれも自分にとっては最初は想像していなかった意外な選択肢ばかりでした。

これ、皆さんも遊びで良いので一度やってみてください。自分で自分に驚きます。

  • ①世界一周、100か国訪問
  • ②BMW1200CCのバイクでツーリングする(本体価格 約220万円)
  • ③海外に留学して、英語を身に着ける
  •  そして商社で海外顧客を相手にビジネスを行う
  •  

この中の選択肢だと、その時の会社にいながら達成できることは②のBMWのバイクを買うことだけです。

ただ、それは他の2つに比べて心躍る選択肢とは違うなと思い、世界一周か海外留学かで悩みました。

ただ、①の世界一周するには英語力が無いと、達成するのもハードルが高いです。

そこで英語を身に着けるため、海外留学という選択肢が良いかもしれないな、と何となく思いだします

当時のTOEICスコアは相変わらず300点台でしたが・・・。

ここで人生の恩人Aさんが現れます。

その彼はたまたま毎週プレーしていたフットサル仲間の一人でした。

その彼がなんと、

「自分は7年前にニュージーランドに1年間語学留学して、

 帰国した後に外資に就職したよ。

もちろんは英語は仕事で使ってる。本気で取り組めば、ひでせろ さんも当然できるよ」

と、言うではありませんか。なかなか言えないかっこいい言葉です。

ドキュメンタリー映画なら絶対に使うシーンでしょう。

ひでせろ
ひでせろ

え! 俺でもいけるのかな?

と、やっぱり疑問に思いました。それが普通の反応だと思います。

それでも人生の恩人Aさんはポジティブな言葉を投げかけてきます。

そして、さらに一緒にフットサルしていた恩人Aの同僚Bさんも英語を使って仕事しているというのです。

心から求めれば意外に、自分の描く夢を実現させている方が身近にいたわけです。

ここで、気持ちは一気に語学留学に傾きます。

できるかどうかはわからないが、英語を学んで、海外顧客を相手に営業活動できる人材になってやろう。

そして、金髪、ブロンズヘアーの彼女を作ろうと(本音)。

と、思ったのは良いですが、

当時の自分にとってはとんでもなく高いゴールでした。

できるかどうかなんてさっぱりわからなかったので。

ニュージーランドに留学を決意。ワーホリの制度も知らなかった私。

一度、心が留学に傾くと居ても立っても居られない気持ちになっていました。

行くと決めてから知ったんですが、ワーキングホリデービザの制度自体を知らなかったんです。

27歳になるまで。

それまでの人生で海外に行くというアンテナを全く張っていなかったのが良く伝わるかと思います。

普通は大学生活の中で一度は話題になっていてもおかしくないですが、当時は全然そちらに興味無かったんだと思います。

行くと決めてから、「ワーホリ?」と普通にまわりの友達に聞かれて、私にとっては皆がその制度を知っているという、その点が驚きでした。

そして、 1年以上行くのであれば、当然、会社を辞める必要があります。

決意したといっても、じゃあ簡単に会社辞めるか、とはいきませんでした。

そうは問屋が卸さない、会社を辞めるまで悩む日々

語学留学を決意したのは良いものの、新卒で入った会社でお世話になった先輩方も多くいるので辞めることに心理的抵抗がなかったわけではありません。

えー、どうやって上司に切り出そうか・・。

という心理状態になり、辞めることを決意して、日曜日の昼間に当時の上司に電話するのです。 そしてドキドキしながら辞職の意を伝えました。

すごく悩んで出した結論でしたが、理路整然と言えるか不安でした。

そのため何を話すか事前にノートに書いたのは良い思い出です。

上司には直接会って目の前でこう言いました。

「今の会社ではなく、将来的に海外を相手に仕事がしたい、そのためには辞めて英語を勉強する必要があります」と。

意外にも、上司にはあっさりと理解してもらえました。

上司の上司には引き留めてもらいましたが、心は決まっていたので丁重にやめることを説明しました。

そうこうして辞めるまでの引継ぎなど怒涛の日々があっと言う間に過ぎ、4年間務めた会社を辞めます。

そして、きれいさっぱり日本のことを忘れてニュージーランドに留学するのです。

留学生活最高!….そして日本で働きたくなる。

今思えば、仕事を辞めて、20代後半で留学をするって、かなりの思い切った決断に映ります。

その時の考えは

20代や30代、いや40代やそれ以上でも自分のやりたいことを制限する必要なんてない

という気持ちでした。

不安というより、もう仕事を辞めてしまった後は新しいスタート、留学への楽しい想像が膨らんで

気分は最高でした。

留学生活は今でも思い出すと楽しかったなあ、遊びたい放題だったし、楽しく勉強したい放題だったなあ、という思いにふけってしまうほど良かったです。

そもそも自分で貯めたお金で留学したので誰にも文句も言われることは無かったですし、ニュージーランドのフレンドリーで自由な国に愛されていました。

その時にはブロンズヘアーの彼女はできませんでしたが、楽しかったです。

しかしながら、誰にも縛られない海外で自由な学生の身になって半年もすると、「飽き」がきてしまいました。贅沢な話でニュージーランドの中でやりたいことがなく飽きたのです。

今思えばもっと本気で仕事を探す、ネットビジネスを始めるなどの可能性がありますが、あまり現実的に思えませんでした。その時点では英語にそこまでの自信も無かったので。

どんな生活をしていたかというと、暇があれば公園に行って、その辺の人たちを誘ってサッカーしたり、学校で出会った海外の友達と旅に出たり、いろいろな国の面白い友達や可愛い女性とカフェや飲みに行ったりする毎日です。

最高だったのですが、一通り遊んだ後に突如、

長い興奮状態から醒めてしまいます。

そもそも、海外向けにプロとして仕事をしたかったんじゃないかという疑問も感じ出します。

そして半年ほど経って自分の中で、

「パーティは終わった」と感じたのを覚えています。

そこから日本に帰国して転職するためには

最低でもしっかりとした英語力が必要であることを再認識し、語学学校のきついコースを取り出します。

そもそも英語の勉強しに語学留学に来ていたのに、何してるのかわからなくなってました。

そして自分のゴールを見直します。

当たり前の結論ですが、英語だけは身につけて帰らないと意味がないと思いなおします。

「このまま帰ったらどうなるのか・・・。」

と焦りが生まれ、

「元々、英語を使って海外と仕事がしたかったんじゃなかったのか。自分は今何をしているのか・・。」

と葛藤が生まれます。

そこで学校のカウンセラーから言われた言葉を思い出します。

「今まで一番英語力が伸びた学生の一人は英語しか話さなかったよ」と。

天才的なアドバイス。ありがとうございます。シンプルにそのアドバイス頂き、

「じゃあ、そうしよう」と。

もうそこからはひたすらに英語力アップのため”あらゆる場面で英語しか話さない”というルールを自分に課し、それを本当に実行し英語だけのニュージーランド生活を最後まで送ります。

日本とのインターネットでの交流もすべてストップしました。

例えば日本人同士3人で集まっても自分からは日本語は一切出てこない、というほど徹底しました。少し変態です。

もうそこだけは本気だったので、ルームメイトも英語しか通じないブラジル人と住んで、自分自身の英語力を鍛える心構えだけは高止まりして下がりませんでした。

どれほど徹底したかというと、帰国した後でNZで出会った日本人の友達が初めて聞く私が関西弁だったことに驚くことほど、です。

その一方で英語の資格取得は全く上手くいきませんでした。

最初からTOEICにはあまり興味がなかったので、英語圏で主要なCambridge FCE(ケンブリッジ英検)のCertificateを得ようと結構本気で頑張って専門の英語コースを受講して、図書館に時々こもって半年以上勉強しましたが、結果として2回とも不合格でした。

ある意味、基礎がついたので受かっていてもいなくても良かったのですが、日本に帰っても転職活動で使えるような英語の実力証明書は何もありませんでした。ゼロです。

そしてテストが終わり、ワーキングホリデービザも切れ、学生ビザも残りわずかになったところで、「もう潮時かな」と日本へ帰国の決意をします。

ニュージーランド滞在中は友人は山ほどできましたが、結局皆、留学生なのでそれぞれの国に帰ってしまい、寂しかったのもあったと思います。

自分もそろそろ、となったわけです。

ちなみに、リーマンショックの後の超円高の時期だったので、円が強かったのもありますが、貯金額330万円の内、この留学期間で270万円ほど使いました。良い投資でした。

2009年当時に比べれば今は間違いなく円安なので、リーマンショックによる円高は良い状況でした。為替で自分の人生の方向性は変えませんが、収入が無い状態だと留学生活は続きません。

そして最終的には自信と満足を得て日本に帰国しました。

日本で転職活動したら、意外にすぐ仕事が決まるが・・。

帰ってすぐに転職活動を始めました。目標であった海外営業に絞って応募し、自分でも意外なことに2ヶ月ですぐにあるメーカーの海外営業部に決まりました。

なんとまあ、とんとん拍子という表現がピッタリです。

でも選んだ会社は仕事内容は面白いのですが、

典型的なブラック企業でした。一部のエピソードや出張のスケジュールはブログ内でも語っていますので、よければどうぞ。

なんと言っても最悪のポイントしては、

職場環境が長時間労働×高圧上司の組み合わせだったことです。

これが、メッチャ辛かった・・。今考えても4年間もどうやって耐えたのやら。

ま、自分で選んだ職場なんですが・・。

世の中の色々な組み合わせの中で言えば、いちご×大福の組み合わせや、ドラゴンズの井端x荒木の組み合わせであれば受け入れやすいですが、この私が選んだ職場のコンビネーションは長く働くには耐え難く、受け入れられないものでした。

今思うと、問題だった点は多々ありますがそのうちの一つは、

根本的にコミュニケーションが取れない、ということです。

例えば、こういう言葉が日常的に飛び交っています。

上司の俺の言うことを聞け

一字一句俺の言う通りメールに書け、

ク〇の役にも立たない

など後から考えればコントのようなコメントですが、本気でそれを言い出す人が複数、会社の上層部にいたのでまさにホープレスです。

意見の交換が無いなら、自分の価値を見出すことはできません。

自分の知っている顧客情報を出し惜しみする傾向もありました。

「俺だけが知っている!俺こそがスペシャル!」というマインドでしょうか。

まとめてみると面白いです。

その時の当事者には面白くないんですが・・。

この時には朝8時に出勤してから、仕事が終わって深夜近くに帰宅する。

もしくは海外出張で丸々1週間~2週間、家に帰れないなどが続き、このままでは明るい未来が訪れないことに気づくのです。

職場の雰囲気も、以前の会社の温かい雰囲気と全く違い、殺伐とした雰囲気のため社内では笑顔で会話ができない、普通の雑談ができないなど、今考えればおかしなことだらけでした。

そして将来への希望が持てずに物凄く嫌気がさしたので、辞めることを決意。

上記の1社目を辞めた理由とは根本的に違い、純粋に、長く働くことは難しいと本気で思ったので心の中ではサッパリと決めることができました。

ただ、自分の中で決まっても、真の問題はどうやって辞めるかです。

これが結構つらく難しい。もちろんお世話になった人もいるので、後ろ髪を引かれるはありました。

一方で、そういう良い人に話をするほど「早く辞めたら」と背中を押してくれました。

状況としてはどんどんと人が辞めていく会社なので慢性的に人材不足のため、辞意を表明してから何度も訳の分からない理由で引き留めを打診されました。幸い、別の部署から前向きな引き留めもありましたが・・・。

仕事では大至急が口癖の上司たちの行動が、この件に関してはとても遅かったことも念のためお伝えしておきます。

ただ、最終的に私から仕事継続は無理、嫌、やる気なしと丁寧に断り続け、ついに辞められる日が決定し、退職します。

英断とは、このことです。

その証拠に、辞めた日は最高の気分でした。

ニコニコして帰宅したのを覚えています。

今でもはっきりと言える、「あー良かった」と。

会社は世の中にいくらでもあるので、合わなければスパッと辞めることが重要です。

自分で選んだ会社ですが、中に入ってみないとわからないことも多いので自分に合わない場合は方針転換は柔軟にした方が良いです。

こちらを読んでいるあなたも辞めることはいつでも可能です。

おすすめはしませんが、バックレても法律違反じゃないです。

元気で毎日を生きることが最優先です。

ブラック企業での仕事を辞めて40日間ヨーロッパ旅行

仕事を辞めて、とにかく、吹っ切れた感がありました。

もう、心の中は、

楽しんでやる

この一点でした。

退職した翌日出発に予定を立てヨーロッパに旅行しました。

※この時点でもネットビジネスに関しては何の知識も情報もないので出てきていません。

旅行はドバイ経由で、スイス、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、オーストリアと6か国周り、帰国。

仕事を辞めたのもあって、それはそれは旅行中の解放感がすごかった。

ニュージーランドで出会った友達にスイスやオーストリアで再会したりもして、人生はこうあるべきと改めて思いました。その時に、将来はこういう機会をどんどん作っていきたいと本気で決意したのもこの辺です。

2回目の転職活動。またもや、意外にあっさり決まる。シンガポール駐在員へ。

40日間旅行の後、日本に帰ってきてバイクに乗って国内旅行したり、フットサルしたり、両親の家でダラダラしました。

まだ「ひどい仕事を辞められた!」という、吹っ切れた爽やかな感覚が続いていました。

そして、吹っ切れたマインドを維持していたので

もうどうせなら海外で働く求人に応募してみよう

と思いつきます。

そして、リクルートエージェントで求人票をネットで確認する日々。

そうすると、書類審査で落ちる日々が少し続きました。海外営業の実績を引っ提げてもなかなか書類が通りません。そういった募集をかけるのは基本的に大手が多いので、ハードルが高いのです。

そんな中で1社がシンガポールで働く駐在員を募集していました。それが今働いている商社の海外営業部でシンガポール駐在、という内容でした。

なぜか英語のテストも無く、さらりと入社決定。

英語ができなかったらどうしたんやろう、と後から思う私。

前職退職から旅行を挟んで再就職するまでの時間軸を言えば、6月末に仕事を辞めてすぐ旅行開始、8月中旬に旅行から帰国してから就職活動を始め、とんとん拍子で10月から働くというスピード感でした。

家族からは、

もっとゆっくりしても良かったのに

と言われましたが、貯金は残り50万円ぐらいしか無かったのと、シンガポール駐在は魅力的だったのですぐに働くことにしました。

2015年からアジアの一国の海外駐在員に

中途採用で入社し2ヶ月間日本の本社での研修を受けた後から、シンガポールで駐在員として働いています。日本以外に住むことで、自分の今までの常識とは違う考え方や、自分の信念を覆される経験など、日々、刺激を受けることの多い毎日を過ごしています。

その中で会社員というのは一つの選択肢である、というのも海外にいると気づかされます。自分で仕事を始められる方も実際に多いので、そう思う機会が多いからです。

前回の海外生活で学生だったニュージーランド滞在と違い、会社の駐在員として働いているので、日本では得られない経験や考え方に毎日接しています。

そして、数年が経ち、ようやく今思うのは会社員として給料に頼るだけ、収入のラインが一つっていうのはリスクが高いということです。

これに気づいたことで、自分で自分発信の仕事をしたくなりました。

そうです。ようやくネットビジネスの可能性に気づいたわけです。

そして、今やりたいこと:自分のビジネスを持つ!

 私は決して計画性を持った優秀なタイプではありません。

もちろん英語ができる優等生でもありませんでした。

それでも海外駐在員になることができたのは、

心構え=マインドを変え行動を起こしたからです。

行動を起こして英語を理解して世界を広げたい。

あわよくばブロンズヘアーの外国籍の彼女を作りたい、と本気で思ったからです。

そうすることで環境は大きく変わりました。

そして、今は新たなステージで、会社員という枠組みだけでなく、自分のビジネスを持ち給料以外の収入を得るべく取り組んでいます。

そのために、行動し始めました。

月収400万円を既に達成している方からコンサルを受け 、ネットビジネスでの仕組化を目指して日々奮闘中です。

クリアが難しい点もありますが、着々と自由に向けた資産化に向け前に進んでいることを気持ちよく感じています。

皆様に価値ある情報発信と価値提供をしていくことで、

自由になる仲間を増やしたいと本気で願い取り組んでいます。

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完全未来志向型のブログとして、読む人に少しでも前向きに、未来に希望を持てる情報を発信しています。

以上。

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