「終わりの日」が来なかった次の日のこと。

日常の違和感

「〇月〇日、世界は終わりを迎える」 もしそんな予言を信じて、財産を投げ打ち、家族とも離れ、その日を待っていたとしたら。 そして、その当日、何事もなく太陽が沈み、いつも通りの「明日」が来てしまったとしたら。

普通に考えれば「予言が外れて良かった」と胸をなでおろすはずです。ところが、人間の心はそう単純ではありません。 信じていたものが間違いだと突きつけられたとき、人は「自分が間違っていた」と認めるよりも、「何かの手違いで、予言はまだ継続しているのだ」と無理な理屈を作ってでも、信じ続けようとすることがあります。

(……これを「認知不協和」と呼ぶそうです。でも、ただの専門用語で片付けるには、あまりにも切実な心の叫びだと思いませんか)

自分の間違いを認めることは、時に自分自身の存在を否定されるような、身を切るような痛みを伴います。 だからこそ、私たちは無意識のうちに自分を守るための「新しい物語」を捏造してしまう。「あの人は結果的に私を利用していたんだ」と思い込むことで、自分の判断ミスを正当化しようとするのも、その一つかもしれません。

ここで、自分の中に「やさしいツッコミ」を入れてみます。

「間違いを認めたら、私は本当に価値のない人間になってしまうのかな?」

正解を選び続けることだけが、私たちの誇りではないはずです。 むしろ、「間違っていたかもしれない」という隙間を自分の中に持っておくこと。 その隙間こそが、他人の間違いに対しても「何か事情があったのかもしれない」と想像できる、やさしさの余白になるのではないでしょうか。

一人の「絶対に間違えない指導者」が支配する世界より、 みんなが「ごめん、私の勘違いだったみたい」と照れ笑いして、 昨日の自分を軽やかに脱ぎ捨てられる場所の方が、 きっと、結果としてみんなが呼吸しやすい世界に繋がっていくはず。

夕暮れ時、昨日までとは少しだけ違って見える景色を、ただそのまま受け入れます。 「間違えたって、世界は続いていく」 その事実に安堵しながら、固く握りしめていた「正しさ」を、そっと手放してみることにしました。

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