会議室で飛び交う「エビデンス」や「コンセンサス」。 あるいは、ニュースで頻繁に目にするようになった「ウェルビーイング」。 私たちの周りには、使いこなせれば少しだけ自分がアップデートされたように感じる、魔法のようなカタカナ英語が溢れています。
こうした言葉を耳にするたび、私たちは無意識に、それを使うことで自分を「正解の側」にいる人間として賢く見せたいという誘惑に駆られます。
(……でも、ここで一度立ち止まって、自分の中に「やさしいツッコミ」を入れてみます。その言葉を選んだとき、私の視界の中に「相手」は映っているでしょうか)
言葉の本来の役割は、自分の内側にあるものを相手に届け、つなぐことです。 もし、そこに相手への「優しさ」があるならば、私たちは自然と、相手にとって最も伝わりやすく、手触りのある言葉を選ぶはず。日本人同士であれば、わざわざ翻訳が必要なカタカナを並べるよりも、耳馴染みのある日本語を使う方が、ずっと親切で誠実です。
けれど、「賢く見せたい」「乗り遅れたくない」という自分勝手な欲望が先に立ってしまうと、相手が理解してくれるかどうかという視点は、驚くほど簡単に抜け落ちてしまいます。
難しい言葉という鎧をまとうことで、自分を守ることはできても、相手との心の距離はかえって遠ざかってしまうのかもしれません。
「かっこいい言葉」を使うことが、仕事ができることでも、誠実であることでもありません。 本当に大切なのは、言葉を飾って自分を立派に見せることではなく、相手の心に届くように、丁寧に言葉を「翻訳」して手渡す手間を惜しまないことです。
一人の「最新用語を使いこなすエリート」が正論を振りかざす世界より、 みんなが「どう言えば、この人に伝わるかな?」と相手の顔を思い浮かべて、 血の通った言葉を選び合える場所の方が、 きっと、結果としてみんなが呼吸しやすい世界に繋がっていくはず。
新しいカタカナ語を口にしそうになったとき、 自分を賢く見せるための「盾」としてそれを使おうとしていないか、自分に問いかけてみます。 見栄という名の鎧を脱ぎ捨てて、相手にとって一番温かい言葉を選び直す。 その小さくて泥臭い「優しさ」の選択こそが、孤立した正解の世界から抜け出し、誰かと本当につながるための第一歩になります。


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